私とミスタードリラーとの出会いは、夫がまだ彼氏だった時代に遡る。
私と夫は93年に高田馬場のゲーセンで知り合った。当時は格闘ゲーム全盛の時代だったが、彼のゲーム好きの根幹はナムコゲームだった。一緒にゲーセン巡りをして、昔のナムコゲームを見つけては熱く語ってくれた。ナムコに関わるグッズやソフト等の蒐集が趣味で、色々なゲーセンやショップに行ったり、イベントにもよく行った。
ドリラーの初お披露目は、99年秋のゲームショーではないかと思う。当時私は仙台に住んでおり行けなかったのだが、夫はそのショーに行って実際に体験してきて、そのゲームが如何に衝撃的だったかを私に電話で語ってくれた。「あれはヤバい。」
ドリルを持った自キャラをひたすら下に掘り進めるゲームで、操作は単純だがゲーム自体は難しい。キャラクターの可愛さに騙されると。
正式に稼働したのは99年11月。私も実際にゲーセンでプレイしてみた。…とても恐ろしいゲームであった。想像以上にヤバすぎた。
千円札を百円玉に両替して財布に入れたのに、気づいたら百円玉が無くなっていた。プレイして、後ろに待機している人がいないのを確認してもう一回プレイしての繰り返し。どうしても500mあたりから苦しくなって、ゲームオーバー時に出てくるコメントがいつも「良い掘りでした」であるのが悔しくてまたプレイして…。
「これはえびせんゲームだ、マジでヤバい。」
私はドリラー中毒(ジャンキー)になってしまった。
×ブロックの位置、AIRの数や減り具合、掘り進めばどんどん苦しくなるなどよく考えられていたし、何よりこのゲームの最大の魅力は可愛いキャラクターとゲーム画面だと思った。「ホリススム」は丸くてピンクと水色で、とにかく可愛かった。壊していくブロックもお菓子に見えて美味しそうだったし、何も言わない地底人すら愛らしかった。女性をターゲットにしているのか!なら大成功ですよ、私はもう心奪われましたよ!と心の中で叫んだものだった。実際、キャラクターデザインは女性の方と知った時は納得だった。公式から出るグッズもどれも可愛くて、出たそばから夫が収集に走った。
この中毒っぷりと熱をどうにか発信したい、ドリラーの魅力を伝えたいし好きな人と語りたいと思い、その年の冬コミに向けて原稿を描き始めた。そのままズバリ「ドリラー中毒(ジャンキー)」という薄い本(本当に薄いコピー誌)を発行して売った。50部も刷らなかったと思うが、自分でも想像しなかったくらい最速で完売した。
同人誌なので好きに描いたのだが、その中で私は「やったもん勝ち」というタイトルで、ススムが壁にディグダグの絵を飾って、それに頭を下げている漫画を描いた。また、ススムの父親は「ホリタイゾウ」という名前で、昔は有名な穴掘り職人だったという漫画も描いた。
ドリラー初見の時から、なんというディグダグ感!地上か地底かの違いはあれど地面を掘るのは似ている、インスパイアされたっていうのもあったのかもしれないと思っていて、伝わって!という思いで描いたものだった。
その後、2000年夏に2が発表された。その当時、夫は渋谷の直営店INTIで仕事をしており、私はその年の春に東京に転勤していた。
7月、INTIでお披露目イベントがあり、私も行った。その時夫が取り次いでくれて、幸運にも制作スタッフの方と直接お話をすることができた。その際に、「ドリラー中毒」という同人誌を作ったと話したら、あなたが作ったのですね!と言われて心底驚いた。恐れ多くもあの本をクロノアスタッフの方が購入して、そこからドリラースタッフの方に渡り、いいじゃんこれ、続編には父親出しましょう、名前もホリタイゾウにしましょうとなって、ディグダグ姿のタイゾウが誕生したと聞いた。スタッフの方の懐の広さに凄く感激した。夢かと思った。
2001年春にはグレートが出た。グレートではタイゾウの他にも家族が出てきて賑やかになり、私も色々と想像力が働き、同人誌を数冊作った。
その頃、彼氏だった夫と結婚して、グレートがPSで出た際には二人で一緒に遊んだ。
思えば、ドリラーを熱く語って勧めてきたのは夫で、その夫もドリラーが大好きで、正直私よりもずっと上手かった。
…そんな夫が居なくなって、私は今ドリラーと向き合うのがとても辛い。大好きなゲームだから、どうしても遊ぶと隣で一緒に笑いながらプレイした夫を思い出してしまう。
それでも。我が子たちに、ミスタードリラーというゲームはすごく面白くて、父も母も大好きなゲームなんだよと伝えたいので、この先も遊んでいこうと思う。
夫よ、ドリラーを勧めてくれて、一緒にプレイしてくれてありがとう。